「学校教育のいくつかのレビュー② 〜給食指導の矛盾〜」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.71

前回No.70から、これまでの学校教育におけるスタンダードをレビューする試みをしている。
前回は教員採用試験における各自治体の「営業努力」の必要性について述べた。

今回は、学校教育現場の中にある一幕に目を向けてみよう。

給食を残してはいけない、という指導について

ぼくは牛乳が飲めない。
いや、あることをきっかけに飲むことはできるようになったが、進んで飲もうとは思わないし、飲めば気分が悪くなる。
理由はわからないが、ただ味が嫌いなだけだ。

大嫌いだが飲めるようになったきっかけは、小学校1年生のときの教師による「給食指導」にある。
このときの指導で飲めるようにはなったが、その指導が適切だったとは思わないし、感謝もしていない。

では、そのときのことを話そう。

小学校に入学して給食が始まった。

担任教師はベテランの男性教師だった。
笑顔がなく、とても怖かったのを覚えている。

給食を残すことは「タブー」だった。
それは、どの学級もそうだったし、今でもその風潮は少なからずあるだろう。
牛乳がどうしても飲むことができなかったぼくは、担任教師が教室を出たり、何か仕事をして子供から目を離している隙に、前まで行って牛乳のトレーにそっと戻していた。
幼く、浅はかな行動だが必死だったと思う。

その行動は何日かうまく行っていた。
しかし、そのような幼い行動をベテラン教師が見逃すはずはなかった。

ある日、いつものようにベテラン担任教師は1人でつまらなそうに給食を食べ終え、子供たちと会話をするわけでもなく、黒板の方を向いて一心不乱に作業をしていた。

それを見たぼくは、いつものように席を立って前に行き、担任教師がいる黒板と至近距離にある牛乳トレーに近づいた。

そしていつものように、そっと牛乳をトレーに戻そうとした。
あとわずかで、その必死の行動を終えようとした瞬間だった。

タイミングを測っていたのだろう。
ベテラン担任教師はパッとぼくの方を振り向いた。

「何をしている」

幼い、小学校1年生のぼくは、震えながら立ち尽くしていた。

そのあと、忘れられない「給食指導」が始まった。

ベテラン担任教師は、楽しそうに給食を食べている全員の前にぼくを立たせ、ぼくの「悪行」を全員に説明した。
そしてこう言った。

「ここでみんなの前で牛乳を飲んでもらおう。飲み干せるまで、みんなで待ってあげよう。無事に飲み終えたら、お昼休みにしようね」

幼かったぼくは、大人の浅知恵によって窮地に陥れられた。
大嫌いな牛乳を飲まなければ、多くの友達に迷惑をかける。
子供にとって、昼休みはいかに貴重なものか。
それを知っているベテラン担任教師の罠だった。

瞬時にぼくは悟った。

(今飲まなければ、どんどん状況が悪くなる)

意を決した1年生のぼくは、鼻で息をして牛乳の味覚を感じることがないように注意しながら、一気に喉に流し込んだ。

そして担任教師は、ありきたりの褒め言葉を投げかけ、つまらなそうに黒板に戻った。

そしてぼくは、牛乳を飲むことができるようになった。

これは「教育」だろうか。
1年生の子供にとって、有益なものが得られたのだろうか。
ぼくは今でも、牛乳を一切飲まない。
だがあの瞬間の、その場から逃れたいためだけの行動の思い出だけは残っている。

小学校の教師をしていたときも、「牛乳は嫌いだから」と言って給食の牛乳は飲まなかった。
子供たちはそんなぼくを、おもしろそうにいつも見ていた。

ここまでではなくとも、同じような光景は今でも学校教育現場に点在してはいないだろうか。

給食を食べ終えるまで、休み時間に遊びに行くことを許されない子供は、みんなの前で牛乳を飲まされた子供と同じだ。
個人の尊厳が、同調という慣習の中で踏み躙られている。

「食べるのが遅い」「嫌いな食べ物がある」

それは、個人の中の「個」の一つであり、強制されるものではない。

残飯ゼロと個別最適の意味

画一性と同調主義は、「給食指導」にも表れている。
そしてそれを、「命」とすり替える巧妙な指導の中で、子供たちは同じ轍を歩んでいく。

食べ物を残すことは、「命を粗末にしている」というすり替えだ。
個別の特性を、究極のマター(命)で押しつぶす教育が学校で行われていないだろうか。
これからの教師は、当たり前と思われていること、教えられたことを一度吟味し、「これからの教育」を模索し創造してほしい。

2030アジェンダにおけるSDGsでは、17の目標の一つに「12・つくる責任 つかう責任」がある。
あらゆる貧困をなくそうというアジェンダは、とくに開発途上国が主要なターゲットになるが、そこに向けられた歩みの中に、日本の給食における消費と生産のサイクルもつながっていると考えるべきだろう。

「給食ロス」とはどのようなものなのだろう。
環境省の資料を紐解いても、そのデータは曖昧でピンとくるものがない。

だが結局のところ、「食品ロス」の対策は「作りすぎない」「食べ残さない」ということが主張される。
だから給食を残すことが「悪いこと」だと捉えられ、食べるのが遅い子、好き嫌いの多い子がそのターゲットとなる。
それが「食育」や「命の教育」にすり替えられてはいないだろうか。

人にはそれぞれに「個の特性、個の尊厳」というものがある。
それは子供たちも同様に。

人にはそれぞれ、最適な、そして満足できる「食べる量」というものがある。
「私は少食です」
「私はよく食べるんです」

これは、自身を知り、自身を語っている、尊重されるべき言葉だ。

「私はにんじんが嫌いです」
「私は、牛乳を飲みたくありません」

そう言う子供の口に、にんじんを押し込みながら、「一口でいいから食べようね」

これは勘違いの教育だ。

昼休みに入っても、1人で口をもぐもぐさせたり、手が止まって辛そうにしている子供に、

「遊びに行きたい?」「もう少し食べたい?」
と聞くことが、個別最適を求める教育の一つだろう。

それは「甘い」のではない。
「理解」だ。

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