「教師としての資質を伸ばす大学の授業とは」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.66
大学の授業は「役に立たない」?
昨日だったか、Twitterでおもしろい呟きを見た。
それは、
”これまで3年間教師をしてきて、たくさんしんどい目に遭ってきたし、いいことも悪いこともあったけど、はっきり言えるのは大学の授業、一度も思い出したことがない。”
この呟きはおそらく、たった1人の声ではないだろう。
現役の教師にアンケート調査を実施したら、とんでもない実態が明らかになるのではないか。
そうなると、教師の世界でいえば、大学は「教員免許を取るために」だけ行く場ということになる。
これはぼくたち、大学の教員としては大変悲しいことだし、これから真剣に考えなければならない実態だろう。
実際、ぼくが小学校教師をしていたころ、現場で役に立った大学の学びといえば、教育実習ぐらいしか思いつかない。
だがこれも、大学の先生ががんばったのではなく、実習先の小学校の先生たちのおかげだった。
大学の授業というものは、教壇に立つ教員が、自分の売れない高い本を学生に売り、その本を授業で使いもせず、延々と自分の専門領域の研究について語る。
そのような時代はもうすでに終わっている。
そのはずだが、それでもまだそのような授業は散見されるだろう。
ただ、大学で学ぶ学問というものは、「簡便」であってもならない。
「専門」的に学ぶ場だから、難解でいい。
それを「楽しい」と思える授業をすることが教員には求められ、専門的で難解な内容に果敢にチャレンジし、学びとる態度が学生には求められる。
日本における現在の教員養成のシステムは、大学における教職課程の履修と、学校現場における体験的学修(教育実習)の履修によって教員免許を取得するという仕組みになっている。
教職課程は近年(2017年)に大くくり化され、「教職課程コアカリキュラム」として、これまでの教職課程が変更された。
これは、もともと大学というところは学芸的な色彩が強く、教育学に関連してもそれは同様だった。
しかし近年、学校現場に置いて実践的な成果が求められ、その要請に合わせて教職課程を変更することが求められてきた。
そこで文部科学省は、教員養成における教職課程について、大学のカリキュラムを「共通化」「大くくり化」し、全国すべての大学の教職課程で共通的に修得すべき資質能力を示した。
ここで重要なのは、現在の学校教育現場において、どのような人材が求められているか、ということだ。
それはもちろん、時代や社会の変化とともに変わる。
だからよく、学校教育では「不易と流行」という言葉が使われる。
いつの時代や社会においても変わらない教師としての資質能力(不易)と、その時代や社会に応じた資質能力(流行)ということだ。
したがって、大学の授業というものは「不易」の部分について、深い真理と科学や文化に裏付けされたことを学び、そこから時代や社会の「流行」に対応できる資質能力を学ぶものだと思う。
冒頭のTwitterに戻ると、大学の授業が現場の学校教育に役立っていないというつぶやきはわからなくもない。
おそらく、ぼくが述べたような昔風の終わっている授業ばかりだったのかもしれない。
そこには、「教授」をイノベーションできない大学人の責任があるだろう。
アクティブラーニング然りだが、専門的な内容をどのように「おもしろく」するかは、このつぶやきのような多くの声を糧にしていく必要があるだろう。
また一方で、大学の授業が役に立たないと思っているのであれば(若い頃のぼく自身を含めて)、それを「本当に」学びとることができていたか、自問自答し、学び直してみるといい。
教員養成のイノベーションへの第一歩の提案 〜大学の授業について〜
今回の論考では、教員養成のイノベーションとして重要なのは、大学教員と学生、双方の意識、態度の変容が必要だとわかってきた。
そこで、いくつかのぼくなりの提案をしておこう。
大学教員はまず、つまらない本を学生に売りつけないようにしよう。
もちろん、テキストとして使用され、有効に学びに活用されるならいいだろうが、コロナも含めて困窮する学生が増えている。
また、教員のそのような方法、姿勢は学生の学びの意欲の低下に結びついている。
大学教員は、専門性の高い内容を「おもしろく」しよう。
これは、内容を「わかりやすく」「簡単に」しようと言っているのではない。
難しい内容をわかりにくい言葉で、勝手に喋り続けるほど簡単なことはない。
それでは「芸」がない。
「難しい内容」を「おもしろく」することだ。
それは、有能な専門家だからこそできる。
学生は、「学びとる」果敢な姿勢を持って望もう。
そもそも大学の授業というものは、高度な内容で難解なものだ。
それを学び取るには、果敢なるチャレンジ精神と工夫が必要だ。
予習や復習は、大学での学びにこそ必要だ。
その工夫が将来の自身の糧になることは間違いない。
教師は、学び直し、学び続けよう。
ぼくは「カリキュラム論」の授業を担当しているが、学生はおろか、現役の教師に
「カリキュラムとはなんですか。何のためにあるのですか」
と問い、その背景や歴史も含めて、正しい知識と同時にクリティカルに持論を展開できる教師はどれくらいいるだろう。
「そんなもの、答えられなくても目の前の子供に関係ない」
という声が聞こえてきそうだが、関係ある。
それが「関係ある」と理解できるように、学びつづけよう。
そのことが、質の高い教育を生み出していく。
教員養成におけるもっとも基本的な根幹である、「大学の授業」について考えてみた。
では、その学びを実践で試し、課題を見出す場が教育実習だ。
次回は教員養成における教育実習について考えていこう。