「脱(これまでの)学校の社会へ」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.64

これまで、いじめや不登校という課題について考えていく中で、そこには「同調主義」や「同質性」というエレメントが少なからず関連しているだろうということがわかってきた。

学校における「集団づくり」は「同質集団づくり」であってなならないということだ。
では、それらはどう違うのだろう。

集団作りの考え方

ある自治体のHPに、「集団づくりガイドブック」というものがある。
このようなガイドブックを作成するきっかけは、「集団づくり」に不安を感じている教師が多いからだろう。
ぼくのゼミの卒業生も、学生時代に取り組んでいた学校ボランティア先で、壮絶な学級崩壊を目の当たりにして教師になることを諦めようとした学生がいた。
その学生は、「私の学級もあんなふうになるかもと思ったら怖い」と言っていた。

ガイドブックには、このように書かれている。

クラスをもう少し見つめてみると、「行事の時に、積極的に参加できない子どもがいる」「SNS上の子どもたちどうしのつながりでもめごとが起きている」「『どうせ、自分なんか』と、あきらめてしまう子どもがいる」「仲良し集団で固まってしまい、他の子どもたちには関心が薄くなっている」…こんなことはありませんか?
そのようなクラスでは、すべての子どもたちが安心して
安全に過ごせているとは言えません。

自治体HPより

たしかにそうだろうとうなづける部分もあるが、この文言がすでに「同質性」ありきという受け取り方もできる。
そもそも、「すべての子供たち」が同じように過ごすことができるということを求めるから大変なのだろう。

この自治体のガイドブックには、クラスの安心度チェックというタイトルのチェックリストがある。
その項目のひとつに、

「いつもひとりぼっちで過ごしている子どもがいる」

というものがある。
この子供は「安心して学級で過ごせていない」ということになるようだ。
そして、こんな子をなくすために、集団づくりをしよう、という方向に導かれている。

しかし、この子供にとってそれは幸せなのだろうか。

これまでにも、休み時間になればいつも机の中から本を出し、幸せそうな表情を浮かべて本を読んでいる子供の姿はよく見てきた。

「ひとりぼっち」なのではなく、1人の世界を楽しんでいるのだろう。
だが、そのような子供に社会性は育たないのではないか、という考えもあるだろう。
しかし、もう「社会」は変化している。
1人でいる子供が、自身の世界に没頭し、その中で自身の未来を生きる資質を育んでいる。

コロナで世界は変容している。
もはやこの多様な社会、多様性(diversity)が主流となった世界において、これまでの学校社会のあり方はその姿を変えていかなければならない。

50年前に、Ivan Illichが「脱学校の社会」を書いた。
それは、学校は必要ない、と行っているのではなく、学校や教育に依存する社会であってはならない、ということを言っていた。
もうひとつは、社会を担う子供たちが「教育」にコントロールされている。
そのような学校社会を脱しようという論だった。
この論は、今でこそ息づいていくだろう。

このシリーズ「教師ななぜ、憧れの職業ではなくなったのか」の最初の頃に、教育、学校がもっともイノベーションから遠く、イノベーションしにくい世界だと書いたと思う。

では、学校の、教師のイノベーションについて、いよいよ最終章に入っていこう。


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