「不登校の潮流」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.59
前回のNo.58では、コロナ禍と不登校の関連について論考するスタートを切った。
このことについては、まだ答えの出ていない世界への新たな探究となる。
そこで今回は、これまっでの「不登校の潮流」について、過去の社会と教育を振り返りながら整理していこうと思う。
「登校拒否」から「不登校」へ
「不登校」については、「登校拒否」という言葉が長く扱われていた。
そして、学校基本調査における「不登校」の調査対象は、以下のように変化している。
- 1966年(昭和41年)〜1990年(平成2年)
「学校ぎらい」で50日以上欠席した児童生徒 - 1991年(平成3年)〜1997年(平成9年)
「学校ぎらい」で50日、30日以上欠席した児童生徒 - 1998年(平成10年)以降〜
「不登校」で30日以上欠席した児童生徒
1998年以降は「不登校」という言葉で括られているが、その定義は
何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により、児童生徒が登
校しないあるいはしたくともできない状況にあること(ただし、病気や経済的な理由に
よるものを除く)をいう。
とされている。
「不登校」の要因について
社会の急速な変化は「不登校」の要因も多様化させている。
過去においては「不登校」は無気力、あるいは「怠学」という要因がその多くを占めていた。
しかし、「怠学」と括られる要因にも、多種多様な背景があることを意識しておくべきだろう。
たとえば、ぼくが小学校の教員をしていたころ、5年生で不登校の児童がいた。
何か学校で嫌なことがあったとか、そのような要因ではなさそうだったので(前の学年からの引き継ぎで)、ある日の放課後にとりあえず様子を見に自宅へ足を運んだ。
チャイムを鳴らすと、子供の声で返事があった。
しばらくするとドアが開き、5年生の子供が立っていた。
その、立っている姿を見た瞬間、ぼくは声を失った。
髪の毛はボサボサで明らかに寝起きの状態だった。
時刻は午後3時頃だっただろうか。
ぼくは、できるだけ明るい表情を作って「こんにちは」と言い、
「おうちの人はいる?」
と聞きながら部屋の中に目をやった。
布団が散乱し、菓子袋が散らかっていた。
部屋の奥から、母親らしき声で子供を呼ぶ声がした。
早く戸を閉めなさいと。
子供は申し訳なさそうに頭を下げ、
「明日は学校に行きます」
と、その場限りの言葉を、慣れた口調で言った。
その子は、とても健康だとは思えない様子に見えた。
この不登校の要因は、「怠学」というだけでは済まされないだろう。
「生活リズムの乱れ」「親子の関わり方」「無気力」・・・。
あるいは、ネグレクトが疑われる状況かもしれない。
この子供はなんとか学校に来るようになり、不登校児童とは思えないほど「普通」に友達と接した。
このような状況の子供は、多くいるのだろう。
「不登校」の要因を考えることは、現代の子供が置かれている状況を知ることにつながり、それは学校や教師の有り様のイノベーションにつながっていく。
次回は「不登校の要因」について概観していこう。