「いじめとトラブルの混在」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.52

前回、教師といじめについて、

いじめを「未然に防止する」こと
いじめを「発見する」こと
いじめを「解決する」こと
いじめから子供たちを「守る」こと
いじめについて「教育する」こと

について考えていくという道筋を示した。

今回は「教師はいじめを発見できるのか」ということについて考察してみたい。

いじめ事件の調査報告書から

ぼくはいろいろな自治体の教員研修などの依頼で「学校安全」「安全教育」について講演させていただいているが、ある自治体の講演依頼の中で、こんな話があった。

講演は学校安全についてお願いしたいが、同時に本市で発生したいじめ自死の調査報告書の内容について、研修参加教員にコメントしてほしい。

というものだった。
そして、いじめ自死事件の調査報告書を手渡された。
その報告書は自治体の学校すべてに配布されているものなので、ぼくにも問題なく手渡されたわけだ。
それでもあまりのも貴重で重い資料だ。
ぼくはつぶさに目を通した。
そこで気づいた「教師といじめの発見」について、ここで記していこう。

事件の概要はこうだ。

いじめの概要

当該いじめ事件が発生した舞台は中学校の部活動だった。
いじめを受けた当該生徒(以下、Aとする)は、部活動における言動から数名の部員の反感を買っていた。
そして中2の秋に、いじめが25件(本調査委員会)あった。
そのいじめの内容とは、「無視」「反応しない」「孤立」「陰口」「煽り」などであった。
「煽り」とは、ひとりの本いじめ事件のリーダー的存在が他の生徒に様々な情報(正確か嘘か問わず)を流し、「いじめ連帯」と呼べるようなものを作り、Aを孤立させたというものだ。

冬になり、いじめは継続した。
いじめの継続は、被害者の心身を蝕んでいく。
部活動でも孤立化し、ペア練習でも相手がいないため、1人で壁に向かって練習している状況が続いた。

12月に入り、ついにAはいじる側にSNSで

「自分のどこが悪かったのか教えてほしい。みんなと仲良くしたい」

というメッセージを送る。
その返信は、ブロック、あるいはAへの改めての非難が相次いだ。

その直後、諦めきれなかったのだろう。
その状況の改善を試みたAは、そのリーダー格である生徒に「謝罪」の手紙を送る。

その手紙を受け取ったリーダー格生徒は、Aが見ている前で他の部員にその手紙を読み聞かせ、そしてAの前で手紙を「くしゃくしゃに丸め」、笑った。

その日、Aは「ノート」に思いを記し、翌朝、自死した。

担任と顧問の対応

Aが所属していた、そしていじめの現場となった部活動の顧問はどのような情報を得ていて、どのような対応をしていたのか。
また、Aの担任教師はどうだったのか、調査報告書からその断片を探してみよう。

Aの部活の顧問は若手の2人の教師(a教諭とb教諭)だった。
また、Aの担任はc教諭だ。

中2の9月に入り、担任のc教諭はAの保護者から、Aが部活動でいじめられている、という訴えを受けた。

だがそうなる以前にAが所属していた部活動では、「被害者」が入れ替わりながらいじめの事案が繰り返されていた実態があることがわかった。
そして部活動の顧問のaとb教諭は

「それらのトラブルをよく把握していた」

と報告されている。
しかし、

「a教諭とb教諭は、トラブルの中心となっていた生徒らの問題点を明らかにして糺していくような姿勢ではなかった」

と報告されている。

また、中1でのトラブルが中2に移行する段階で申し送りがされていなかった、と報告書に記載されている。

ここまでの報告から概観すると、

「いじめの芽を把握していながら、早期に対策しなかった教師」

という非難の構図が作り出されているようだ。

だが気になるのは、報告書に「いじめ」という文言と「トラブル」という文言が混在していることだ。
「いじめ」に気づいた教師は、それを止めようとするし対策しようとするだろう。
いじめを見て見ぬふりをする教師はいないのではないか。
だが、「いじめ」なのか、「トラブル」なのかわからない時があるのは事実だ。
とくに中学生の「トラブル」に、担任がいちいち口を出したりすることは憚られるし、逆に教育的ではないという感覚がある。
中学生にもなれば、トラブルは自分たちで解決しようとするだろうし、親や教師に愚痴を言ったり相談することはしなくなってくる。
それが「自我」の芽生えの証だ。

しかし、その「自我の芽生え」が、教師がいじめを発見することを阻んでいる。
ぼくは、関わっている奈良市の「いじめ防止なら子どもサミット」のコーディネーターを務めているが、100名あまりの中学生が集ってSNSによるいじめの防止について意見を出し合ったとき、多くの生徒が

「先生には相談しない」

と言った。
理由を聞くと、明快な声が返ってきた。

「話が余計にややこしくなる」

教師はいじめ「らしきもの」を察知すると、まず当該児童・生徒を呼び出し、話を聞く。
そしていじめる側、いじめられる側を特定し、加害者と被害者の構造を確定しようとする。

その後はいじめている側に止めるように言い、いじめられている側に、少し我慢して「がんばれ」と言う。

それで一応の解決を図ったように結末を迎えようとする。

このような構図が一般的だろう。
だが子供たちにとっては、余計に話をややこしくしているだけ、らしいのだ。

この、「方法と感覚の乖離」が教師にいじめ発見や対応の不成功に結びついているようだ。

このような観点について、もっと考えを深めていく必要がある。

引き続き、取り組んでいこう。



Follow me!