「やりたいことをやれる世の中に」
今この瞬間、東京で行われる学会へと向かう新幹線の中で原稿を書いている。
新幹線に乗ることなんて、いつぶりだろう?
COVID-19以来、学会はこれまですべてオンライン開催だったし、研究調査での国内出張も認められていなかった。
できることならこのまま、やりたいことができる世界へと戻ってくれたらと願う。
だが、パンデミックという要因ではなく、組織のあり方や社会のあり様などが原因で、やりたいことがやれないこともある。
ここまでブログでは、「教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか」シリーズでNo.50まで書いてきた。
少しずつそのゴールが見えてきた感じがするが、ここでちょっと閑話休題といこうと思う。
組織とは関係なく、個人のストーリーとして話すので、その主人公をMとしておこう。
やりたいことがやれない実態 〜Mのストーリー〜
最近、Mにとってとてもショックなことがあった。
Mはカンボジアが好きで、COVID-19以前はよく訪問していた。
その気候、アジアの熱気、途上国の人々の懸命さと明るさ。
それらに魅せられ、Mの中の人としての何かが刺激され、カンボジア・メコン大学を拠点に研究のフィールドワークや調査も実施していた。
もともとはMが勤務する大学の協定校であり、短期研修の引率で行ったことがきっかけだが、2019年は研修以外に年間で3回訪問した。
訪問するたびに大きなものが得られ、研究や生き方への刺激を受け、また行きたい、と強く思いながら帰国する。
大学の研修も毎年リニューアルし、学長からの薦めでMが考案したプログラムで国の留学支援制度にエントリーして採択され、学生は経済的な負担も少なく研修に参加できるようになった。
(このカンボジア研修プログラムについては、ブログの中の「優しさの国 カンボジアで」に詳細を記しているので、またよければ読んでほしい。(サイトマップ→カテゴリー→「優しさの国」カンボジアで)
ある日、この留学支援制度の来年度の資料を作成しながら、Mはあることに気がついた。
改めて募集要項を熟読していると、そして採択されている大学のプログラムや派遣学生の人数などを見ていると、どちらかというと大学の教員個人が、自身の開講するゼミナールの研究課題で申請し、採択されているようだった。
Mは、どうして今まで気づかなかったのだろうと悔やんだ。
Mのゼミの学生たちは、カンボジアの魅力的な話を聞くものだから、とても行きたがっている。
だが最近の学生には苦学生が多い。
この留学支援が採択されたら、学生の学びの機会のとても大きな支援になる。
Mはさっそく、エントリーシートの作成を始めた。
締め切りまで3日しかない。
その日は金曜日で、翌土曜日と日曜日は学会で東京に出張している。
月曜日の締め切りに間に合わせるためには、チャンスはこの日しかなかった。
エントリーシートを書き始めたMは、大きな楽しさを感じていた。
溢れるように研修アイデアが浮かんでくる。
何よりそこには、「夢」があった。
わくわくする物語が始まっていくようだった。
しかし、例えエントリーシートを書き終えたとしても、学長をはじめ数人の認可が必要だった。
数人の押印が必要だが、それが間に合うのかが心配だった。
このような、学生のためになる、夢のある企画なのでストップがかかる可能性はないと思っていたが、締め切りだけが心配だった。
そこで事務局のアドバイスもあり、Mはまず、学長に話を入れておくことにした。
Mは研修の目的、方法を書いた書類を持って学長室を訪れた。
会議が続き、学長は少し疲れているように見えた。
30分後には次の会議があるということなので、Mは企画の要点をまとめて学長に説明した。
黙って聞いていた学長は、言葉を発した。
いい企画だし、締め切りが近いから早めに議案を作成して回すように。
Mは、その言葉以外は想像していなかった。
しかし、学長の口から、Mにとっては1%たりとも予想していなかった言葉が発せられた。
「やめておいた方がいい」
Mは驚き、「えっ!?」という言葉を発した。
そしてその後、驚くような言葉が学長から発せられた。
「そんなことしたら、また周りにとやかく言われるだけだ」
Mは、愕然とした。
学長が何を懸念したのかわかった。
学長の周りに、Mのことを「とやかく」言う人物がいることは知っていた。
これまでに何度か、Mは学長から、こんなこと言っている人がいるよ、と聞いていた。
例えば、「Mのゼミは優秀な学生が多いが、学生を囲い込んでいるからだ」とか、「国からの研究費を使って、調査と言いながら旅行しているんじゃないか」とか。
Mは、そのようなことを学長に囁いている人物が誰なのか予想はついていた。
完全なやっかみだと思って無視していた。
しかし、このような企画、しかも学生のためになるものをしようとしているときに、その「やっかみ」が弊害となるとは予想もしなかった。
Mはあまりにものショックで言葉を失い、ただ首を振って「信じられない」というジェスチャーしかできなかった。
学長は続けた。
「また自分のゼミの学生だけ、なんて言われるに決まっている」
Mは強烈な絶望感(その絶望感とは企画が通らないと言うことではなく、そのようなやっかみが横行し、それが人の前向きな行動や考えを阻害するという現状に)を感じるとともに、言いようのない怒り(それは学長にではなく、現状に対する)がわき、学長に言った。
「そのように言う人の態度や姿勢が優先されるのですか?」
あまりにも理不尽だと思った。
「とやかく」言われることを避けるために、学生の学びが阻害されるということ。
そして「とやかく」いう側が「力」を持っているということに。
Mの問いに、学長は黙ってしまった。
Mにはわかっていた。
学長にとっても本意ではないということを。
Mのことを心配して言っていた。
その後、学長は言い直すかのように、企画を先に通して議案作成は後でするという方法もあるよ、などと言ったが、もはやMの中で、その企画への熱意は完全に消失してしまっていた。
Mは、熱意を持って書いた書類を束ね、学長に渡したものを引き取り、
「もういいです。この企画を取りやめます」
と言い、席を立った。
Mの中で、組織への絶望感と、やりたいことをやれなくさせる理不尽な圧力への不快感だけが残った。
協調性とは何か
ここまでがMの身に起きた物語だ。
それにしても、あまりにも残念な物語だ。
この物語から、ぼくはあることを思い出した。
それは、先日ノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎氏のコメントだ。
真鍋氏は日本からアメリカに国籍を変え、アメリカに在住している。
そのことについて、以下のやりとりがあった。
記者:日本からアメリカに国籍を変えた主な理由は?
真鍋氏:面白い質問です。
日本では人々はいつも他人を邪魔しないようお互いに気遣っています。
彼らはとても調和的な関係を作っています。日本人が仲がいいのはそれが主な理由です。ほかの人のことを考え、邪魔になることをしないようにします。日本で「はい」「いいえ」と答える形の質問があるとき、「はい」は必ずしも「はい」を意味しません。「いいえ」の可能性もあります。(会場から笑い)
なぜそう言うかというと、彼らは他人の気持ちを傷つけたくないからです。だから他人を邪魔するようなことをしたくないのです。
アメリカでは自分のしたいようにできます。他人がどう感じるかも気にする必要がありません。実を言うと、他人を傷つけたくありませんが、同時に他人を観察したくもありません。何を考えているか解明したいとも思いません。私のような研究者にとっては、アメリカでの生活は素晴らしいです。
アメリカでは自分の研究のために好きなことをすることができます。私の上司は、私がやりたいことを何でもさせてくれる大らかな人で、実際のところ、彼はすべてのコンピュータの予算を確保してくれました。
私は人生で一度も研究計画書を書いたことがありませんでした。自分の使いたいコンピュータをすべて手に入れ、やりたいことを何でもできました。それが日本に帰りたくない一つの理由です。なぜなら、私は他の人と調和的に生活することができないからです。(会場から笑い)
https://globe.asahi.com/article/14456228
これは、真鍋氏のユーモアを混じえたアイロニックであるように聞こえる。
自分には「日本人らしい協調性」がないと言っているが、それが必要だとも思っていないのだろう。
あるいはそれは煩わしいのでアメリカ人になったということだ。
Mにも協調性がないのだろう。
だから何かにつけて「とやかく」言われる。
そして生きづらく、何事もやりにくい。
もしMが、ともかく「目立たない」ように、余計なことをしないように、そして周囲に合わせて日々を過ごせば、「とやかく」言われることはなくなるのだろう。
日本はこれでいいのだろうか。
未来を生きようとする子供たちに、これまでと同じ「日本で生きるための協調性」を教えていくのだろうか。
不登校の子供たちは、その生きづらさから逃れようとしているのかもしれない。
教育に関わるひとりの研究者として、このことを考えていこうと思う。