「教育実習で授業をすることの意味は」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.44

前回(No.43)は学生ボランティアと教育実習の違いについて述べた。
そこでは最後に、「先生」として、「子どもたちに対する責任」を痛感する体験をさせてくれるのは、授業だと結んだ
そこで今回は、教育実習生の「授業」について論考していこうと思う。

教育実習での授業の意味

教育実習生はおおむね、実習期間中に4時間程度の研究授業を行う。
だが熱心な指導教諭のもとで学ぶと、10時間、20時間の体験をさせてくれる場合もある。
その分、指導する労力は増加する。

実習生は日夜指導案と格闘し、良い授業を行おうと一生懸命だ。
今まで多くの実習生を見てきたが、いい加減な授業をしようとする学生は見たことがない。
皆、子どもたちの前に立ち、よりよい授業をすることを、そして、それができる自分自身を期待して教壇に立つ。
それは、日々の子どもたちとの関わりの中で、子どもたちへの愛着、あるいは愛情がそのような授業への思いを実習生にもたらすのだろう。

しかし大抵の場合、その思いや期待は打ち砕かれる。

実習生が45分の授業の中で、シナリオを読むように授業を行い、子どもの質問に答えることができずに立ち尽くし、すがるような目を向けてくる場面に数え切れないほど出会ってきた。
その実習生を指導する教員は、ここで助け舟(と言うよりも、実習生の未熟さを子どもたちに露骨に知らしめる行為)を出すべきではない。
ここで実習生に学ばせなければならないことは、授業とは、授業者と子どもたちとの共同の場であるということだ。
実習生が初めて教壇に立ったとき、まるで味方のいない、たった一人きりの舞台のように感じている。
実習生の授業がうまくいかない原因はここにある。
今やインターネットで検索すれば、いくらでも学習指導案は出てくる。
授業マニュアル本も多く出版されている。
したがって、それなりの指導案は誰にでも書くことができる。
だが、その通りに授業をしてみても、大抵はうまくいかない。
なぜか。

授業とは、授業者と目の前にいる個々の子どもたちとの協働の中に生まれる成果を目指すものなのであり、子どもたちと教師、あるいは子どもたち同士の人間関係、教師の声や話すスピード、表情、発問のたった一言の言葉やタイミングなどで、まるで生き物のように、死んだり生きたりするものだ。
よい授業をする教師は、例外なく子どもたちの目を見て話し、子どもたちの目や表情から、その理解度や関心を感じ取り、瞬時に授業の流れや内容を修正することを無意識に行っている。

「授業は生き物である」ということの、その一端でも実習生が感じることができれば、その教育実習は大きな成果を収めたということができるだろう。

「子どもが好き」ということの意味

教育実習生に、なぜ教師を志すのかという問いを投げかけると、多くの学生が「子どもが好き」だと答える。
「子どもが好き」という感覚は、教師としては必要最低限の資質である。
しかし、その「好き」は、ここではまだ教師として、あるいは学校という社会の中に存在する子どもを対象としたものではなく、親戚の子どもをかわいく感じることと同義だろう。
教育実習では、「子どもが好き」ということの意味を、教師という職業を通すことによって、改めて問い直し、新たに構築することができる機会にすることが大切だ。

ぼくはよく教育実習生に、大好きな子どもたちの顔を思い浮かべながら、精一杯の授業を作るように指導した。
休み時間に肩車をしてあげることは、誰にだってできる。
その瞬間の子どもたちの笑顔は、「先生」に向けられた信頼を含んだ笑顔なのではなく、「学生」のお兄さん、お姉さんに向けられた笑顔だ。
本当に子どもたちを愛しいと思うなら、45分の授業を価値あるものにしなければならない。
なぜなら、実習生にとっては
「失敗した。次にがんばろう」
で済んでも、子どもたちにとっては、その内容のその45分は、一生に一度の機会なのだ。
そのことに気づいた実習生は、授業に「失敗した」などとは言わない。
口惜しさと不甲斐なさで一杯になり、それでも45分の授業に一生懸命取り組んでくれた子どもたちの顔を思い浮かべながら、涙を流す。
このとき、その実習生の中で「子どもが好き」の意味が変わるのだろう。
この感性は、教師として重要な資質だ。

教育実習生を預かる学校や教育実習生を送る大学は、学生の感性を教師としての感性へと変換、昇華させる機会を作るべきであり、また、教師としての資質を学生自身が見極める機会を与えることも必要だ。

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