「学生ボランティアと教育実習について」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.43
今回は、教育実習生そのものに焦点をあて、教育実習現場での実際の学びと、その学びの有用性や効果について論考してみよう。
その前に、学生ボランティアの立場の困難さについて考えてみよう。
そのことが、教育実習におけるStudent-Teacherという立場を明確にしていくだろう。
学生ボランティアの困難さ
教育実習の前、大学における3回生になるまでのカリキュラムの中で、介護等体験や、大学のカリキュラムによっては学校支援ボランティアなど、教育という社会の一部に経験はあっても、そこにある「子どもたちに対する責任」の荷重はさほど大きくはない。
なぜなら、2回生までの現場体験は、あくまでもボランティアや体験の域を出るものではなく、体験校の教師に守られ、直接的に子どもたちに対する責任を負わされることはない。
以前にも書いたが、たとえばボランティア学生の前で子どもが喧嘩をしていたとしよう。
そこには担任が不在の状況だ。
学生は正義感や使命感に溢れ、喧嘩を止めたり指導しようとするかもしれない。
しかしこれは、とてもセンシティブな問題だ。
担任と子供、そしてその子の保護者の間には、ある一定の関係性が構築されている。
それが「信頼」であれば最もいい。
また、担任の教師には「責任」がある。
子供の喧嘩をとめ、怪我を防ぎ、内容によっては指導する。
また逆の責任もある。
子供が喧嘩で怪我をしたら、その状況について説明をする責任。
これらの「関係性」や「責任」はボランティア学生にはないものだ。
だから、喧嘩を止める「止め方」も重要になってくる。
たとえばボランティア学生が子どもの手をつかみ、喧嘩を止めようとしたとしよう。
そしてその力が強く、子どもに擦過傷を負わせてしまった。
これは言い方によっては、「ボランティアの学生に怪我をさせられた」となってしまう。
学校や担任が、その保護者に謝るしかない。
結局のところ、そのような事態にならないようにするには教師としてのセンスが必要だ。
学生ボランティアにそれを求めることはできないだろう。
Student-Teacherになる瞬間
しかし、教育実習は違う。
何よりも、子どもたちと接する時間と期間が違う。
教育実習ではおよそ1ヵ月の期間、教師たちとほぼ同じ時間、子どもたちと接している。
喧嘩をしている子どもたちの対応に迫られる場面もあれば、学級全体を指導する場面にも出会う。
その中で、おのずと「子どもたちに対する責任」の荷重は大きくなる。
その責任の荷重を、教育実習生は子どもたちの無邪気な言葉と行動で知ることになる。
実習初日、担当する教室で、子どもたちに満面の笑みで「先生」と迎えられる。
その瞬間、教育実習生は「学生」でありながら「先生」であるという、重層的立場(Student Teacher)を持つことになる。
子どもたちは無邪気に、「新しく」「若々しい」先生に好意を示す。
無邪気に信頼し、頼り、教えを請う。
その中で実習生は次第に、「学生」であることよりも「先生」であるという意識を強くしていく。
しかしそこには、実は「先生」であるという実体は存在しない。
子どもたちが「先生」と呼んでくれるから「先生」だと思うことができる。
だが、そのまま教育実習が終わるはずもなく、ただ若く、目新しいから好意を持たれていただけの「学生」であったということを思い知らされる場面に出会い、「先生」として、「子どもたちに対する責任」を痛感する体験をする。
その体験をさせてくれるのは、授業だ。
次回、教育実習生の「授業」について論考していこう。