「教育実習を受け入れる学校の役割と実態」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.42

前回、「教育実習生を送り出す大学の役割と責任」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.41では、教育実習に学生を送り出す大学の役割と責任について述べた、
今回は、「実習を受け入れる側」について考えていこう。

公立学校が教育実習を受け入れる上での課題

教員養成系大学の附属学校園と、一般の公立学校とでは、教育実習生を受け入れる際の体制や意識に差があるのは当然と言える。
その一方で、公立諸学校の教育実習生の受け入れについては、様々な点で課題がある。
まず公立学校は、そもそも教育実習を受け入れる前提での体制が整えられていない。
ぼくがかつて附属学校で就いていた教生指導部長や、教育実習委員会のような校務分掌は設定されていることはまずない。
なぜなら、教育実習の実施は、公立校にとっては全くの不確定要素なのだ。
たまたま卒業生が教員を志して教育実習を申し込んでくるか、近隣の大学に教員を志望する学生がいて、受け入れを要請してくるという過程が実態だ。

また、いわゆる母校実習については、“大学側の対応や評価の客観性の確保等の点で課題も指摘されることから、できるだけ避ける方向で、見直しを行うことが適当である”(No.41前掲答申)とあるように、公立学校にとっては、いつ何時、どのような、どこの学生を受け入れるのかという点において、不確定なのが実態だ。

そして何より、社会構造が揺れ動きながら変動している現代社会において、学校や教師に求められる要求は大きく、さらには「失敗が許されない」世情が大きくなっている感は否めない。
教師は常に、児童の学力や体力、道徳性や人間関係に気を休めることなく注意し、保護者の期待を裏切ることなく日々を過ごしていかなければならないというプレッシャーにさらされている。
そのような事情を鑑み、公立学校の教員が教育実習を担うとき、未来の教師を責任をもって育てるのだという気概がなければ務まるものではない。
過酷な教師たちの日常の中に、それでも拒むことなく真摯に対応しようとする学校現場の勤勉さや態度に甘えている現状があるのではないか。

これまでにぼくが大学から送り、見てきた教育実習では、さまざまな学校現場の教師に出会ってきた。

本気で教師を育てようと、全身全霊で指導に当たってくれた教師。
学生の研究授業で、その成長に感極まって涙する教師もいた。
またあるいは、研究授業の終了後に僕が学生を指導すると、「それは私の指導不足です。私の責任です」と涙した教師のことも忘れられない。

逆に、初日に「ぼくは忙しいからあまり見てあげられないよ」と言って学生を不安にさせる教師。
あるいは以前に紹介したように、「こっちは実習を受け入れたってるねん!」と、実習訪問に来た大学教授に言い放つ校長。

いずれにしても、教育実習は学生にとって、教師になるか、諦めるかの試金石にもなるが、学校や担当した教師によってその道筋も変わりうる分水嶺にもなる。

願わくば、教師の卵と真剣に向き合いながら、厳しくも温かく育んでほしい。
どの教師も、そうして教育実習を経て今の自分がある。

先に挙げた中教審答申「今後の教員養成・免許制度の在り方について」から10年が経つ。
また小学校の教員需要のピークは、各地で2018年前後に迎え、その後は大幅に需要が減少している。
しかし一方では、現代の社会構造的にも教師の資質・能力は高いものが要求されている。
時代の変化に合わせて、教育実習の方法、質的転換が必要な時期に来ていることは容易に想像できる。
実習を受け入れる学校と、実習生を送る大学が協働的に学生の学びを交換し、有効な教育実習を営むプログラムの構築が求められている。

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