「鍋蓋式と職員室」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.37

これまで、新任教師の言葉から「教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか」という命題について論考してきた。
ここから、少し論理的に考えていこうと思うのだが、前回の投稿で書いた自分の言葉に少し引きずられる。

それは、「職員室」の話だ。

職員室と教師の世界のヒエラルキー

前回の記述で、とても平和に新任教師の日々を送っている様子を紹介したが、その回答の冒頭には同じ文言が並ぶ。

「人間関係に恵まれているので」
「職員室がいい雰囲気なので」

そこから、新任教師にとっては「職員室」が大きな意味を持つのだろうか、という考えが思い浮かぶ。

たとえば新任教師へのアンケートの中にはこのような文言があった。
いくつかの、「職員室」に関連する言葉を紹介しよう。

「私は、この学校の職員室の雰囲気が好きではありません」

「職員会議で提案された内容について、その場では質問や意見は出なくても、終わってから職員室で、陰でいろいろ言っている」

「学年の先生が残業していると、帰れない雰囲気がある」

「学年主任より早く退勤しようとすると、主任より早く帰るんだ、と言われる」

「ベテランの先生が、若手ができていないことを助けたり指導するのではなく、職員室で悪口を言っている」

こんな言葉が並んでいた。

これらの言葉に、うなづいている自分がいた。
なぜなら、ぼくが小学校の教師をしていたときと同じだからだ。

ぼくが新任から、その後の公立小学校での数年間を思い返してみると、職員室は悪口、陰口の温床だった。
悪口や陰口はいけません、といっている教師が同僚や管理職の悪口、陰口を言いまくっていた。
だからぼくは、職員室がとても嫌いだった。

これはどのような社会も同じで、人間の性なのだろうか。

しかし、一つだけ一般社会と違う構造が職員室にはある。
一般的には会社というものには社長がいて、部長、課長、係長、平社員といったヒエラルキーが存在する。

だが、学校という社会にはヒエラルキーがなく、よくメタファーとして用いられるのが「鍋ぶた式」という言葉だ。
鍋の蓋はほぼ平ら(皆同じ)であり、つかみ手の部分だけちょこっと出っ張っている。
このちょっとした出っ張りが校長だ。
あとは年齢が上だろうと、担任などやることは同じだ。
そのくせ、年功序列の給与体系だからとてもややこしい。

いずれにしても、ヒエラルキーに対する意識が、いい意味でも悪い意味でも低いから、悪口を平気で言い合う狭い社会となっている。

大学の世界はちょっと前までは「白い巨塔」など、ヒエラルキーがとても強烈な世界だった。
教授、准教授、講師、助教、助手・・・。
その階層が明確だった。
実はこの階層は、「そこから学ぼうとする」謙虚な研究者の姿勢を生むという、メリットもある。
ぼくが所属するところは鍋蓋で育った人が多いから、ヒエラルキーがとても希薄で、ああ、そんな感じになるんだ、とある意味で興味深い。

鍋蓋は妙な平等性を生みだし、若い時のぼくのような、とんがった若手教師が生まれる。
これは悪いことでもなさそうだが、それが「悪口を言ってもいい」というふうに繋がっていくことは問題だ。
新任教師はその悪口を聞いて育っていく。
職員室で悪口を言って、聞いて、そして教室の子どもたちの元へと散っていく。

そのような日々に、夢と希望を抱いていた新任教師たちが幻滅していく様子が、目の前で見えるようだ。

悪口を言ったり笑顔がない職員室であるとすれば、それは教師のそれぞれのパーソナリティーだけによるものではないだろう。
そのようなストレスを生んでいる学校社会の構図があるのだろう。
それを解明していかなければならない。
続けて探究していこう。

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