「学校の懐古主義が憧れを奪う」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.29
前回、NO.28まで3回にわたって、新任教師のサキの壮絶な1年あまりについて振り返った。
学校が、あるいは1人のベテラン教師が有望で大切な若い芽を踏み潰した。
どのような社会においても、耐えて学ぶことがあるのも事実だろう。
だが、古い経験を押し付けることは「学び」にはならない。
「私が新任の頃に比べて今の新任は・・・」
という言葉を聞くことがあるが、違って当たり前だ。
時代も違うし、教育環境も、昔の子どもと今の子どもも違う。
学校という社会は、いまだに懐古主義が横行している。
だから学校はイノベーションから程遠いところにあり、懐古から抜け出せない。
そしてその中で、若い芽は「憧れ」を持てずにいる。
だからぼくは、ここでいくつかの新任教員の事例、様子を紹介し、検討しながら、
「教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか」について探究していきたい。
次の事例となる新任教師は、ミヅキ(仮名)だ。
ミヅキは25歳の女性教師で、採用2年目の新人だ。
1年目はまさにコロナ禍において、歴史上初めてとなる「全国一斉休業要請」のさなかに新任教員として赴任した。
まず、この物語の主人公のパーソナリティーについて紹介していこう。
そのことのよって、この新任教師の、教師としての資質の様相について、それぞれの認識を進めていくことが重要だ。
ここからの主人公 カンボジアで、自身に足りないものを見つけた学生
ミヅキの両親は教育関連の仕事をしていて、とくに不自由はなく育った。
小学校から高等学校まで公立の学校に進学し、高校は進学校だった。
いざ進学する大学を選ぶとき、「両親の影響でなんとなく」教育系の大学を選択した。
そして第1志望だった国立大学に落ち、私立大学の教育学部に入学した。
大学ではボランティアサークルに所属し、また、大学の海外研修(カンボジア)に積極的に参加するなど、自身を高めようとする意識の強い学生だった。
たとえばこんなことがあった。
大学2年生のとき、思い切って参加したカンボジア研修で、ミヅキは大きな衝撃を受けた。
これはカンボジア研修に参加するあらゆる学生に、そしてその保護者の感情において言えることだが、最初は先進国目線で参加する。
カンボジアという国は「貧しい」「衛生的ではない」「発展途上国」「アブナイ」・・・。
カンボジアは1970年代に、ポル・ポト派による政権(クメール・ルージュ)が内戦を繰り広げ、およそ170万人の国民が虐殺や飢餓によって命を失うという惨劇の時代があった。
ポル・ポト派が完全にその影響力を失ったのは1999年であり、現在のフン・セン体制が築かれたのは2000年以降だ。
したがって、とくに1990年代は「地雷」「難民」というトピックがカンボジアという国の象徴的なものとして強く印象付けられた側面がある。
そこから、先に述べたカンボジアのイメージに繋がっているのだろう。
大学2回生の2月、ミヅキはカンボジア研修に参加した。
初めてプノンペン空港に降り立ったとき、その圧倒的な群衆、アジア特有の”におい”、極寒の2月の日本から6時間後のムッとするような熱帯、それらに圧倒され、誰もが同じように感じる戸惑いを覚えた。
研修はミヅキの期待を裏切るものではなく、とても刺激的で体験的だった。
だが何よりも、ミヅキを刺激したのは交流先の大学生たちだった。
「先進国的目線」がミヅキにもあったのだろう。
それだけに、カンボジアの大学生がみな、流暢に英語を話すことに衝撃を受けたのだった。
カンボジア研修に参加した学生は、ほとんどが同じ衝撃を受け、そして言語へのコンプレックスを増長させる。
日本の若者が海外に行きたがらない理由は、英語が話せないということがその大きな要因になっているという話にも説得力がある。
そして誰もが、日本に帰ったら英語を勉強しよう、と”一時的に”決意して帰る。
だがミヅキは一時的な衝撃で終わらせなかった。
帰国したミヅキはすぐに留学の計画をたて、8月の夏休みに単身でフィリピンでの短期留学を実行した。
この留学が、ミヅキの英語力をどれだけ向上させたかはともかくとして、自身に足りないものを見つけ、それを克服するために行動する力がミヅキにはあった。
(次回へと続く)