災害時における教師たちのノブレス・オブリージュ ~そこにある「使命感」と「多忙感」~ 21 記憶と風化

ここまで20回にわたり、本シリーズ「災害時における教師たちのノブレス・オブリージュ」を展開してきた。
今回の第21回で、いったん本シリーズを完結しようと思う。
最後は、ぼくと岡村先生の共同執筆で。

「風化」とは

震災や事件、事故の発生した時が巡ってきたとき、「風化」という言葉がよく出てくる。
そこにはいつも、「風化を防ぐ」というベクトルが働いているように思う。

ぼくがこれまで関わってきた事件、災害の「当事者」は、風化についての態度、考え方は多様だ。


”失われた子供の命を、いつまでも忘れないでほしい”

「風化」を懸念し、それに歯止めをかけようと奮闘する遺族もいる。
あるいは、

”悲しみを忘れたい。そっとしておいてほしい”

このように思う遺族もいる。
だから、「忘れる」ことがいけないことではないはずだ。
それぞれの向き合い方がある。

福島「帰還困難区域」に佇む学校。 2度と「母校」に足を踏み入れることができない子供たちがいる。

それでも、あらゆる出来事は、周囲の環境が変化することにより風化することを免れない。
たとえば、阪神・淡路大震災から22年が経ち、今や震災後に誕生した者が相当数に上っている。
その者が多数になるにしたがって、「震災は過去の歴史」という雰囲気を作り出していくことは否定できない。
現に、ぼくたちが、大学で日ごろ関わっている学生は、ほぼ全員が震災後に生まれた者だ。
そのような学生が、震災を生々しい出来事として認知していないのは当然だろう。

ぼくは毎年、ゼミの学生を連れて「1.17の集い」(阪神・淡路大震災の慰霊祭)に参加する。
ここ2年はコロナで実施できていないが、そのような場に参加した学生は、一気に当時のことを知り、隣で啜り泣く声を聞いて「震災があったこと」を実感する。
そのような実感が持てない場合、たとえば東日本大震災においても、震災を経験していない者が、震災に関する復興が進んだという認識において、震災経験者との軋轢を生んでいるという報道も目にする。

それでは、災害の風化はどのように進んでいくのだろうか。
矢守(1996)は、災害の記憶が長期的に「風化」していく過程を、同災害に関する新聞報道量を指標として定量的に測定することを試みた。
その結果、報道量は指数関数的に減少することが見いだされた。
ただし、新聞報道量の減少、すなわち、災害の「風化」とは単なる忘却の過程ではなく、当該の出来事の意味が人々のコミュニケーションを通して一定の方向へと収束し、共有され、定着していく過程でもあることを指摘している。
すなわち、新聞記事の量的減少は、災害に対する人々の興味・関心が単に「忘却・消失」したことを反映すると言うよりは、むしろ多様であった災害の意味が、人々の間で確定、共有され、ついには、今さら口にするのもはばかられるほどに自明化したことをも意味している(矢守, 1996)。

したがって、「風化」とは「文化」に変わっていく様だとも言えるだろう。

「風化」と教育の価値

ぼくたちが福島県を訪れたとき、東日本大震災から派生した福島第1原発事故の発生から、放射線教育が積極的に推進されている様子を見た。
しかし、その温度も地域によって違うそうだ。
「浜通り」の未だ凄惨とも言える現状や内実は、「中通り」には伝わってきていないという話も聞いた。
帰還困難区域に今でもたたずむ学校は、恐らく二度と、そこに子どもたちの声がこだますることなく朽ちてゆくのだろう。
それでも、震災当時小学校1年生だった子どもが、高校生になり、福島県で放射線について、あるいは避難先の遠く離れた地で地震災害について学ぶ機会を持ったときに、その記憶は呼び戻されたり、新たな関心を強くしたりし、結果としてそれは「震災の記憶」のベクトルを上昇させたり、低下を和らげたりする。

防災教育とは、その災害の知識と理解の獲得や、防災スキルを高めるだけではなく、「記憶」の再生と継続、忘却や消失という意味での「風化」への抵抗、そして残された「教訓」の活性という、多様な価値を持っているということを提言し、本シリーズをいったん終えたい。

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