災害時における教師たちのノブレス・オブリージュ ~そこにある「使命感」と「多忙感」~ 10  ふるさとの学校、教育の再開へ

再開した学校

前回(本シリーズ8月3日「福島県からの教訓」)に続き、2017年7月に福島県を訪れた際の話を続けよう。

2011年3月に発生した東日本大震災において、その3次的被害ともいう福島第1原発事故において、およそ15万人がふるさとを離れて避難を余儀なくされた。
2021年現在においても、数万人が避難状況にある。
「県外」避難の捉え方の違いで、その数値がさまざまなであるため、一様にどれだけの人々が避難生活を終えてふるさとに帰ってきたかはわからない。
しかし、避難先で新たな生活をようやく営み、5年後にふるさとが避難解除されたからといって、諸手をあげて帰ってくることができないことは、容易に想像できる。

ではそこで、教育は、学校はどのように再興したのか。
あるシンポジウムに登壇した福島県の小学校の校長が、

「2度と故郷に、母校に帰れない子どもたちがいます」

と言った言葉を思い出す。
福島第一原発から15㎞ほどしか離れていないところにある学校が、事故から6年経った2017年4月に再開した。
その、楢葉町立楢葉北・南小学校を訪問した。

ふたつの小学校とひとつの中学校が統合され、一貫校が建設された。訪問時、先生方はとても忙しそうに、1学期の後始末をしていた。

 楢葉町は、原発事故からおよそ4年半後、2015年9月に避難指示が解除された。
事故直後は町民の約6000人がいわき市に避難し、約1200人が会津みさと町に避難した。
そして子どもたちの教育環境を保障するため、最寄りの学校への受け入れ態勢の構築や民間企業の社屋で学校を再開した。
その後、2015年の夏以降に避難解除の動きが見え始め、楢葉町で学校を再開するのか否かを決断するため、帰還意志の意向調査を行った。
実際に、2015年9月の避難解除後、2016年4月に行った帰還率の調査では、町民全体の帰還率は6.8%(503名)であり、そのうち0歳から19歳までの帰還者数は9名であった(町内帰還者集計表 楢葉町ホームページより)。

楢葉町に学校を再開したときに、帰還して就学する意志の有無に関する意向調査(第1回2015年7月実施)では、楢葉町での就学意志を示したのは小中学校合わせて36名(全470名中)だった。
そこで楢葉町は学校再開会議をもち、学校再開時期を2016年度か2017年度にするのかを議論した。
そのとき、大きな議題となり、そして学校再開の時期を2017年度に遅らせたもっとも大きな要因は、

「子どもをこの町に戻すのは、最後だろう」

という意見だったという。
除染が進んだとはいえ、まだまだ線量の高い部分も多くある中、大人でも帰還を躊躇している。
安全性を高め、安心して帰れる場所を大人が作り、最後に子どもを戻すのだという意識である。
その結果、2017年4月の学校再開では小中学校合わせて105名が帰還し、楢葉町の学校に戻った。

学校が地域に果たす役割

福島第1原発を「廃炉」するための研究施設を訪れた。
廃炉に関わる人々は、あらゆる業種で2世代、3世代にわたる。

 福島第一原発から10km圏内にある富岡町は、2017年3月に避難指示解除を受けた。
これを受けて、一部の帰還困難区域を除いて帰還が可能となった。
だが、この7月末に富岡町を訪れても、人の姿をほとんど見ることはなかった。
町が、まるで息をしていないかのようだった。
何より、町に子どもの姿がなかった。
学校が再開されていないのである。

 その一方で、学校が再開した楢葉町ではこのような話を聞いた。

生活科や社会科で、校外で体験的な学習をするときは、行く場所の線量を計測し、その数値を保護者に伝えて許可を得てから行うのだそうだ。
そこで、田植え体験の学習を計画した。
楢葉町では現在、帰還した農家が田作りや名産のゆずを作っている。
だがこれらは出荷することができない。
それでも作り続ける農家の姿を、子どもたちに見せたいという教師たちの思いがあった。
学校が事前に田畑を調査すると、0.4~0.7μ㏜の線量が計測された。
危険ではないが、安心しきれる線量ではない。
保護者に体験活動の是非を問うと、すべての保護者が承諾した。

田植え体験の日、日頃聞くことがなかった、あるいは震災後数年の間、聞くことがなかった子どもたちの歓声が、小さな町に響き渡った。
次第に地域の人々が集まり、子どもたちの田植えの様子を楽し気に眺めていたのだそうだ。

地域には学校があり、そこに子どもたちがいてこそ息づくのだという、当たり前で大切なことを、福島県の「今」から伝えられた気がする。

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