災害時における教師たちのノブレス・オブリージュ ~そこにある「使命感」と「多忙感」~ 7 避難訓練における被災地からのメッセージ①

2016年4月に発生した熊本地震を対象とした研究の中で、ぼくたち(松井、岡村先生)は何度も被災地に足を運んできた。
そのたびに、益城町立広安西小学校の井手文雄校長先生(当時、現在は山都町教育長)をはじめ、さまざまな人と出会い、素晴らしいChanceに恵まれてきた。
訪れた当初は、被災地を巡りながらカメラを構える自分自身に、ときおり嫌悪を覚えたものだ。
当時、被災地をフィールドワークしていると、大学の研究者や建築関係の業者などが、カメラを手にウロウロとしていたものだ。
ぼくもその1人であって、被災した人々にどのように映っているだろうと考えたものだ。
そして、被災地での研究とは何か、どのような姿勢で望むべきか、よく考えた。
しかし、訪れた先の人々は、そのようなことはお構いなしに協力してくれる。
出会いに恵まれてきたのだと思うが、それを必ず役に立つ研究にしなければならない。
このブログの発信も、そのひとつになればと思っている。

そして今回は、2018年7月に熊本を訪問したときの話だ。

熊本市内の小学校へ

これまでの熊本地震の調査では、益城町を中心として進めてきたが、2018年7月に、初めて熊本市内の小学校を訪れることになった。

熊本空港から県道28号線を、熊本市内に向かって東に車を走らせると、とある場所から景色は一変する。
県道の幅が狭くなり、農道から家屋や店舗が多くなる区域に差しかかると、徐々に倒壊家屋が目につき始める。
そして益城町寺迫の交差点で、目を奪われるほど凄惨な光景を目にする。
2016年の秋以降、倒壊家屋の解体がようやく進み始め、訪問した2018年7月では震災当時の凄惨な光景はなくなりつつあり、解体後の無機質な土地だけが目立ち始めていた。

そこからさらに東へ向かうと、道幅は広くなり始め、倒壊家屋は目につかなくなる。
それが、熊本市内に入ったという目安になった。
熊本県を訪れ始めた当初は、その様相の違いに驚かされた。
だがもちろん、熊本市内の被害が小さかったということではない。
熊本城の城壁などの崩壊は凄まじく、また、熊本市南区の液状化被害も数多く報告されている。

熊本城は凄まじく倒壊した。 現在も修復が続けられている。


あるいは、「熊本地震における建築物被害の原因分析を行う委員会報告書」(熊本地震における建築物被害の原因分析を行う委員会報告書)による悉皆調査では、益城町の被害集中地域は「古く(100年以上前)より住家がある市街地と概ね対応する」ことや、「益城町及びその周辺地域には規模の大きな鉄骨造や鉄筋コンクリート造・鉄骨鉄筋コンクリート造の建築物はそれほど多くない」という調査結果が示され、「旧耐震基準の木造建築物については、過去の震災と同様に新耐震基準導入以降の木造建築物と比較して、顕著に高い倒壊率であった」と報告されている。
このことから、益城町と熊本市内の建造物の相違による、目につく被害状況の差異は認められるのである。
現に震災後、県内全体で43万戸以上が断水したうち、その75%にあたる32万戸強が熊本市内の断水状況であった。
その、熊本市内における避難所となった学校の、教師の果たした役割について、ぼくらは強い関心を持ったのだ。

そして今回、ぼくらは熊本市内の南部に位置する熊本市立小学校(以下、K小学校)で、2人の管理職に取材を行うことができた。
そこでは、被災地における子どもの様子や学校運営上の実情から、避難訓練の在り方に対する重要な示唆を得ることができたのだ。

(次回へと続く)

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