カンボジア研修とコロナⅦ 2020年の研修は、突然の終わりを迎えた

ここまで、カンボジア研修の3つのプログラムと学生の様子について紹介してきたが、2020年2月のカンボジア研修とコロナに話を戻そう。

大学から来たショッキングな通達

研修は初日から順調に進んでいたのだが、研修開始から4日目、スラム炊き出しプログラムの試作、試食会を現地大学の部屋を借りて実施している時だった。
同行の事務員、渡邊さんの元に、大学から一通のメールが届いた。
渡邊さんとは、この研修の3つのプログラムや学生募集、また引率について(ぼくはこの年、カンボジア研修の引率が危ぶまれた事態があったが、渡邊さんはずっと、ぼくの味方をしてくれた)、何かとディスカッションを重ねてきた同志だ。
その渡邊さんが、少し引きつった表情で、「先生、これを」とメールの文章を示した。
そこには、大学の危機対策本部会議で「研修の中止と即時帰国」が決定したので、帰国の準備をするように、との内容だった。
ぼくは大きなショックを受けながら、ぼくたちの大学の学生とプノンペンの学生が、和気藹々と試作を繰り返し、3日後に予定している炊き出しプログラムの実施を疑いもしていない様子を見ていた。
いや、見ていたのではなく、たまらなくなり、学生をどかせて焼きそばを作った。
”どうだ、こっちの方が美味しいだろう”
と、学生たちに言いながら食べさせていた。
後で学生たちに聞いたことだが、ぼくが自慢げに作った焼きそばは、めちゃくちゃ味が濃かったらしい。
そんなぼくの様子を見て、学生たちは(おかしいな。何か先生が変だ。何かあったな)と感じていたという。


大学が帰国指示を決定したのは、横浜港に停泊していたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」で感染者が出流などし、乗客の下船や検疫について世間の耳目が集まっている最中に、プノンペンからおよそ230Km離れた、カンボジアのリゾート、シアヌークビルにクルーズ船「ウエステルダム」号が入港したことだった。
横浜港の「ダイヤモンド・プリンセス」号については検査、検疫等で下船を許さない状況が続いた中、カンボジア政府は「ウエステルダム」号の入港後3日で全ての乗客の検査をすませたと報道し、全乗客を下船させた。
下船した乗客は、ぼくたちが滞在するプノンペンへと向かった。
このことに大学は危機感を募らせたようだ。

プノンペン空港で帰国手続きの列を作る作るウエステルダム号の下船客


それでも現地では危機感が持てなかったぼくは、現地の状況について大学(学長に直接)に報告し、プログラムを最後までさせてほしいと懇願した。
学長はぼくにメールで、”危機対策本部会議での決定よりも、あなたの判断を優先するつもりだ”という心強い言葉をぼくにくれた。
そのときぼくは、もはや帰らなければならないことを知った。

学生たちに、どう伝えればいいのか・・・。

ただちに渡邉さんが帰国の便を探し、炊き出しプログラムの翌日に帰国することが決定した。
その結果、いのちのディスカッションプログラムが実施できないことになった。
そんなことよりぼくは、2日後には研修を中止して帰国しなければならないことを、学生にいつ伝えるか思案した。
ふたつの選択肢があった。
ひとつはぎりぎりまで伝えないこと。
そこから得られるのは、2日間を何の疑いもなく、研修を満喫できることだ。
航空機の都合から、翌日の炊き出しプログラムは実施することができる。
そこまで思う存分に活動させ、炊き出しプログラムが終了し、充実感に包まれた体を休めた翌朝、「今晩の飛行機で帰国します。10時のチェックアウトの準備をするように」と告げるということになる。
もう一つの選択肢は、直ちに伝えるということだ。
そのことによる学生の心理面を想像すると、一つは寂しさを募らせ、翌日の炊き出しプログラムにも打ち込むことができないかもしれない。
しかし、直ちに伝えることで得られることは、残された時間と主体的に向き合うことができるということだろう。
あと2日しかないという覚悟を持って、一瞬一瞬を過ごすことができる。
ぼくは後者を選択した。
学生は「大人」だ。
それぞれの時間を自身でマネジメントする権利がある。

夕刻、いつもぼくたちの研修でミーティングに使わせてもらっている、ホテルのレストランに8名の学生を集めた。
なぜ突然呼ばれたのかわからない学生たちは、いつもなら
「なんですか。どうしたんですか」
と屈託なく聞いてくるのだが、なぜか何も言わずに全員が席についてこちらを凝視している。
あとで聞いたところによると、昼頃からのぼくの(おかしな)様子(焼きそばの異常な味の濃さ)と、日本の友人や親とのやりとりから、その気配(帰国の可能性)を感じ取っていたらしい。
ぼくは声を詰まらせてしまいそうだったので、淡々と大学からのメール内容を伝え、
「明後日に帰国します」
と伝えた。
学生たちは覚悟していたとはいえ、その瞬間は息をのみ、何かが失われたような、何かに叩きのめされたような表情でぼくを凝視していた。
たまらなかったぼくは、努めて明るく「でも、来れただけでもよかったね」といった。
学生たちはカラ元気で「はい」と答え、それぞれが部屋に帰っていった。
それぞれが部屋で号泣したらしい。

帰国を告げた晩は、みんなで食事に。 屈託ない笑顔で、前を向く学生たちだった。

このことは、ぼくたちの身に起きた些細なことかもしれない。しかし、コロナ禍によって、学びの機会を失った一つの事象なのである。このような教育における災禍が世界の至る所で起きていたのだろう。

帰国後、出発からたった7日間で様相が大きく変わっていることを目の当たりにした。
そこからコロナ禍は、急速にその歩みを早めていったようである。
2月末には全国一斉休校要請が発出され、卒業式や入学式など、それまで当たり前だった学校行事が無くなったり縮小されたりした。
休校は延長され、運動会や遠足の場が失われていった。
9月入学論が取り沙汰され、東京オリンピックの延期が決まった。
入学した小学校1年生のランドセルは、真新しいまま家で眠る日々が続いた。
大学はオンライン授業が続き、学費の返金問題などが話題となった。
通常、6月から9月の間に4週間で行われる教育実習は縮小され、2週間の実施となった。

コロナ禍が教育の世界に与えた影響は、大きなものだった。

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