カンボジア研修とコロナⅥ いのちのディスカッションプログラム
「命の価値」は国によって違うのか
「カンボジアでは学校で子供が被害に遭うような事件は起こりません。だって心があるから」
この言葉は、ぼくが2018年9月にプノンペン王立大学で学生に講演を行った時に、プノンペン大学の学生が発した言葉だ(6月26日に配信した「カンボジア研修とコロナⅢ 3つのメインプログラムはカンボジアへの『過剰な愛』が生んだ」を参照)。
ぼくはこの言葉がずっと心のどこかに引っかかっていた。
そこで3つのプログラムのひとつとして、「命」をダイレクトなテーマにして、日本の学生とカンボジアの学生でディスカッションしてみたいと思った。
まず、ぼくとカンボジア・メコン大学の樋口先生とで協働して「命」をテーマにした講義を行う。その題材から、両国学生にディスカッションさせるというものだ。
そこでぼくは、関心があって昔読んだことがあったハーバード大学教授のマイケル・サンデルの著書「Justice これから正義の話をしよう」を思い出した。
この中に、遭難した船に残された4人の船員の話がある。
何日も海上を漂い、食料も飲料も枯渇した状況の中で、1人の船員の命(もっとも若く、衰弱していた)を生き延びるための糧にしたという実話である。
そしてサンデル教授は、「これは道徳的に許されることか、そうではないか」と学生たちに投げかけている。
この題材を、「いのちのディスカッション」で取り扱うことにした。
次回あたりで述べるが、2019年度のカンボジア研修ではコロナ禍による早期帰国で、「いのちのディスカッション」を実施することはできなかった。したがってここでは、2018年度の研修(2019年2月に実施)で実施した「いのちのディスカッション」について紹介する。
「私たちの道徳観って、どこから来てるんだろう」
2019年2月18日。カンボジア・メコン大学の教室で「いのちのディスカッションプログラム」は展開された。
メコン大学とぼくたちの大学の学生は、遭難した船の話を真剣な表情で聞いた。
そして、1人の船員の命を犠牲にする場面では、どちらも顔をゆがめたり、複雑な表情を浮かべ、口々に意見を言い始めた。
そしてぼくは、ホワイトボードに「A(Not Guilty 道徳的に許される)」「B(Guilty 道徳的に許されない)」と線引きし、各学生に自分の考えた立場に名前を書かせた。
この時、(まさかここまで違うとは・・・!)という驚きに、ぼくは包まれた。
結果は、カンボジア・メコン大学の学生全員が「A:Not Guilty」の立場を取り、日本の学生全員が「B:Guilty」の立場を取った。
そしてディスカッションが展開された。
ディスカッションというよりも、カンボジアの学生たちが堂々と持論を展開した。
それは総じて、
「3人の命が助かるのであれば、1人の犠牲はしかたない」
「1人を犠牲にしなければ、4人全員が幸せではなくなる」
というものだった。
日本の学生たちは、その堂々たる意見に圧倒された。
同時に、日本ではありえないような論理(1人を犠牲にしてもよいという)に戸惑っていた。
この、メコン大学生たちの考え方は「最大多数の最大幸福」(ベンサム)という功利主義の思考だが、それはカンボジアの歴史から来るものなのか、それとも途上国の環境がそうさせているのかとても興味深い。早くコロナが終結し、カンボジアを訪れてカンボジア・メコン大学日本語ビジネス学科長の樋口先生と語り合いたいテーマだ。
日本の学生は戸惑っていたが、大好きなメコン大学のみんながそう言っている、という、研修で構築され、高まった親和性が、その意見を真剣に聞き入れ、深く考えさせてくれた。
そして少しずつ、日本の学生たちが意見を言い始めた。
「ぼくは、人の命を犠牲にしてまで生きたくない」
「それなら、ぼくが犠牲になりたい」
日本の学生はそう言った。
そんなディスカッションが続く中、日本の1人の女子学生がこう言った。
「私たちはもしかして、自分の手を汚したくないだけなのかもしれない」
この言葉は、自分たちは綺麗ごとを言っているのではないか、という自己懐疑からくる言葉だった。
そしてもう1人の学生が言った。
「私たちの道徳観って、どこから来るんだろう。
考えてみたらそれは、小学校1年生から教えられてきた道徳の授業かな」
この学生はさらに、「それが正しいんだって、教え込まれてきた」
と言った。
海外に出て、自分たちとは明らかに違う考えに触れた。
そして、自分たちの考えを懐疑した。
そこから、新たな自身の考えを構築すればいい。
これもまた、日本にいて、そこから出なければ得られない体験だった。
“カンボジア研修とコロナⅥ いのちのディスカッションプログラム” に対して1件のコメントがあります。
コメントは受け付けていません。