コロナ禍の新任教師たち⑤ 「半世紀前と同じ教職像」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.10
採用試験の倍率が最低を更新という報道
先日の報道発表(6月25日、朝日デジタル)で、今現在進行している2022年度小学校教員採用試験において、昨年度、過去最低の倍率を示した2.7倍をさらに下回り、今年度は2.6倍であると報道された。
そのタイトルは「公立小教員の採用倍率、過去最低更新 長時間労働で敬遠」というものだ。
過去最低倍率を示したことは「事実」であっても、「長時間労働で敬遠」がその根拠の全てのような印象を受けるタイトルだ。
改めて思った。
メディアのセンセーショナリズムが教師という職業の「憧れ」を幻滅させている側面がありはしないか。
取り上げられる教育の諸問題は、その当時の社会的文脈の中に位置づく。教師が長時間労働である、教師はブラックな職業である、今、そのように語られることが注目されるが、本当にそうなのか。
先日、久しぶりに会った卒業生で、大阪府の教員をしている元ゼミ生に聞いた。
「教師の仕事って、ブラックだと思う?」
彼は即座に否定し、こう言った。
「全く思いません。とてもやりがいのある仕事です。教師になってよかった」
そんな声に、もっと耳を傾けることはできないものだろうか。
「売れる記事」を優先させることによって、国を作り、成長させる教職のイメージを幻滅させている。これは、みんなで自分たちの首を絞めているようなものだ。
半世紀前から・・・。教師は「憧れ」を取り戻すのか
では、「教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか」の続きを話そう。
ここまで数回にわたって、コロナ禍の新任教師たちの言葉(LINEのやりとりを中心に)を紹介してきた。
コロナ禍の中で新任教員としての一歩を踏み出した稀有な存在が紡ぎ出した言葉の数々は、教師という職業の「夢」「憧れ」としての存在の脆弱性を浮き彫りにした。
しかし同時に、教師になった者の喜びも垣間見れた。
だがそれは、探さなければ見つからないほどの小さくてこぼれ落ちそうな芽であり、現代の教師という職業を強く表しているものではない。
これから先、彼らが教師という職業を誇りに思い、その姿を見せていくことが次代の「憧れ」を生み出していくのだが、現在のところそれは淡い期待に過ぎないようだ。
では、このままでいいのか。半世紀ほど前に、Ivan Illichが「脱学校の社会」を唱えた。
そこでイリッチは、
「中途退学者や中途退職者の割合、特に中学校教師の中途退職者と小学校教師の中途退職者の割合の大きいことを考えてみれば、国民が全く新しいものの見方を求めていることがわかる」
と述べ、専門職としての教師の役割は、もはや社会の役には立たないと痛烈な表現をした。
半世紀前の話である。
しかし、今も学校があり、そこに教師はいる。
では、教師という職業は過去の「憧れ」を取り戻すのか、それとも新たな形を作り出すのか。
この答えを得ていくためには、なぜ今の状況(教師が憧れを失った)が生み出されたのか、さまざまな角度から紐解いていかなければならない。
まず、教師を取り巻く社会の状況に目を向けてみよう。
(次回へと続く)