児童の列にトラック 児童が死傷のニュースに

繰り返される悲劇

2021年6月28日
下校中の小学生の列にトラックが突っ込み事故に。
小学生2名が亡くなり、他の児童も重傷を負っている。
亡くなった2名の小学生のご冥福をお祈りするとともに、ご家族の悲痛な思いを想像するといたたまれない。

ぼくはこの事故をニュースで見た瞬間に、ただ一つのことを思っていた。

“また、教訓が生かされずに大切な命を失った”

事故を「誰が起こした」かより、「どうすれば防ぐことができるのか」を、
学校安全の観点で考えなければ、また不幸な事故は起きる

この事故は、2012年に発生した亀岡市での交通事故を思い出させる。
2012年4月。京都府亀岡市で、無免許運転の軽自動車が集団登校中の児童と保護者の列に突っ込み、10人が次々にはねられた。
そして児童、保護者、保護者の胎内にいた未来の命まで失われた。
この事故でセンセーショナルに語られたのは、やはり「加害者像」である。
「無免許運転」「元暴走族」「居眠り運転」など、運転していた少年の、その瞬間の様子や生育歴が取り上げられる。
これは犯罪でも同じだ。
日本は、あるいは日本のメディアは「犯罪原因論」に終始する。
犯人の生育歴や前科、家庭環境を根掘り葉掘り取り上げ、「こんな人間だから犯罪を犯した」という理論に持っていく。
その方が人々の怒りや同情を買える。
たとえば2017年に、千葉県で小学校3年生の女児が登校中に連れ去られ、殺害される事件が起きた。
このとき、メディアがこぞって取り上げたのが、容疑者がPTA会長で、毎朝児童の登校の見守りをしていたということだった。
しかし本当は、話題にしなければならなかったのは、「なぜ児童は1人で登校していたのか」ということだ。
これは、1人で登校していた児童を責めるためではもちろんない。
登下校のシステムはどうなっていたのか、ということである。

ぼくが毎年、講演等で関わらせていただいている2004年に奈良市で発生した小学校1年生の女児殺害事件でも、下校中、1人でいるところを連れ去られて殺害された。
この女児の尊い命が残した教訓を、生かすことができていないから、2017年の千葉県での事件が起きた。
犯人がPTA会長だということは、どうだっていいことではないか。

原因ではなく、過去の教訓が示唆する「機会」に目を向けることが必要

今回の千葉県で発生した交通事故は、2012年の亀岡市での事故の「教訓を生かしていない」ことが大きい。
2012年亀岡事故では、事故発生現場の通学路にガードレールがなく、交通量が多かったことが挙げられた。
今回の事故も同じではないか。
加害者の呼気からは基準値を超えるアルコールが検知された。
そのことは、事故の原因の側面であり、要因ではない。

今回の事故から、「何を教訓にするのか」

芸能人がワイドショーで、
「路側帯がなかったとか、歩道がなかったとか言われてますけども、やっぱり圧倒的に運転手が悪いと思うんですよ」

この芸能人はその後、飲酒運転を取り締まる架空の持論を展開した。
そしてこのコメントに、「その通り」「胸にきた」というリプライがあるそうだ。
著名人がこの程度のコメントをするから世の中は変わらない。
無免許運転や飲酒運転の取り締まりを徹底して、「無にする」ことができるのか。
それは、学校から学習についていけない児童を皆無にすることと同じくらい困難だ。
そのような、出来もしない当たり前のことを言う前に、事件や事故の教訓を研究し、その「機会」をなくす努力をするべきだ。

今回の千葉県の交通事故で、「なぜそこを登下校路にしていたのか」

学校と教育委員会は、目を背けずに議論し、改善するべきだ。
全国の学校は、この事件を機に、登下校路の安全点検を本気で実施してほしい。

そうしなければ、今回の事故で亡くなった児童は「不運な子」で命の価値が語られる。
亡くなった命に冥福を祈るなら、その命から学ぶべきだ。

「教訓を生かす」ために執筆した拙著



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