「教師を生み出す場」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.3

教師という職業は、社会的地位が高いと思いますか。

前回、「教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか」No.2では、ぼくが教師という職業に「憧れ」た瞬間について述べた。
ぼくは幸運だったと言える。自身の人生を「憧れ」から道づけることができたのだから。「憧れ」は強いモチベーションとなる。
しかし今、子供たちは教師という職業を、どのような眼差しで見ているのだろう。そして将来を選択する大学生は、教師という職業をどのように見ているのだろう。
そこに、かつてのような「憧れ」の眼差しはあるのだろうか。

ぼくは、教師を志して大学に入学しながらも、進路変更して一般企業に就職していく学生を何人も見てきた。
その進路変更の瞬間に、何か違和感を感じてきた。
その違和感の正体はなんなのか、ずっと考えてきた。
まだその正体がわからないが、感覚として、彼らは教師になる夢を「諦めた」のではなく、「見限った」ような感じを受ける。
それは一体、なぜなのか。
教育は人を育て、人が社会を創造する。そして、教育の根幹にいるのは教師である。教師という職業は、社会にとって、そして国家にとって重要な役割を果たす職業であることは、それほどの批判を受ける意見でもないだろう。
ぼくは学生に、「教師という職業は、社会的な地位が高いと思いますか」という質問をした。
結果は【図1】の通りである。

ここからは、半数近くの学生にとって、教師は「社会的地位は高くはない」職業なのであり、人々から尊敬される職業ではないという感覚が読み取れる。
残念なことだが、これが学生の感覚の実態だろう。
そのことはすなわち、教師は「なりたい職業」ではなくなっていくのだろう。
教師になる夢を「諦めた」のではなく、「見限った」ような学生たちの姿は、ここからくるのではないだろうか。

有望な教師を生み出すのは「教育現場」というひとつの要因

教育実習は、人生のターニングポイントになる可能性を秘めている。

その一方で、最近、希望的な場面を見た。
ぼくのゼミの学生で、サッカー部に所属している学生がいる。
彼はぼくのゼミの門を叩いて入ってきたが、聞けばどちらかというと、一般企業への就職を望んでいた。
実はぼくとしては、彼のパーソナリティーから言って教師になってほしいと思っていたが、
「少し心に余裕を持って、教育実習で自分自身に問いかけてみたら」どうかと彼に言うにとどめていた。
いい子なので「はい!」と言っていたが、気遣いの返事だったと思う。
この学生の実習訪問に行った。
実習訪問は通常、実習生の研究授業日に訪問する。
まず校長室に案内され、校長先生と実習生の様子について話をする。
ぼくは学校現場に、特に専門の学校安全に関心があるので、登下校の体制などについても意見交換する。
その後、行き渡った学校であれば、実習生と担任の先生が指導案を持って校長室に来てくれる。
実習生(ゼミ生)の顔を久しぶりに見る。
だいたいこのあたりで、実習生が充実した教育実習を送れているかわかる。
いい実習を送ることができる学校には、笑顔がある。
その実習生の国語の研究授業は初々しく、それでも周到に準備されたもので、担任教師の行き渡った指導が垣間見ることができた。
研究授業が終わった後、校長室をお借りしてゼミ生と話をした。
そこには、担任の先生も時間を作って同席してくれた。
素晴らしい学校だ。
だから実習生はこう言った。
「先生、ぼく、教師になる道も考えてみようと思います」

学校現場が、1人の大切な、優秀な教師を生み出そうとする瞬間だ。

なぜ、学生は教員になりたがらないのか。

なぜ教師は、憧れの職業ではなくなったのか。

なぜ教師から、笑顔が失われてきたのか。

この状況が続くと、日本の教育はどうなるのか。

追究していこうと思う。

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