「憧れ」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.2

ひと昔前であれば、教師は憧れの職業であり、羨望の的だった。
小学生のころ、友達の親が学校の先生と聞けば、その子供自身が周囲から尊敬され、よくできる子供に違いないという評価が労せずして得られたものだった。もちろん、その評価はその子自身の実態に見合わず、単なるプレッシャーとなる場合もあっただろうが。
それほど、教師という職業は尊敬され、憧れられるものだった。

ぼく自身、現在は大学の教員をしているが、数年前までは小学校の教師だった。
大学受験ではセンター試験(現在の共通テスト)の点数に見合った大学を選択し、それはたまたま教育大学だった。
合格後、大学は遊ぶところだと勘違いしていたぼくは、ろくに学びもせずに大学生活を謳歌(留年)していたが、卒業するために必修だった教育実習に行く必要が生じた。
しかたなく行き始めた教育実習の数日中に、人生が変わった。

ターニングポイント

ぼくが配置された学年は1年生で、担任教師は40代後半のベテラン教師だったのだが、隣のクラスの男性の担任教師はまだ20代の若手男性だった。
その若手教師は、毎朝スーツ姿で(教育大学の附属小学校で、教師は全員スーツで授業をしていた)出勤しながら、出会う子供たちに「おはよう!」と爽やかこの上ない笑顔で挨拶をしていた。ぼくはその、年齢もおそらくいくつも違わない若手教師の姿を、まるで異星人でも見るかのような眼差しで見ていた。
教育実習が始まる直前まで、バブル期の予熱の中で自堕落な生活をしていた自身と、20代にして教師としてのエリートコース(当時の国立大学附属小学校の教師はそのような扱いだった)を歩み、爽やかに子供たちに挨拶をする若手教員の差異に、ぼくは戸惑い、驚くばかりだった。
それから毎日、その若手教師を目で追うようになっていた。

「憧れ」は、どこで、どのような体験をし、誰と出会うかによるのかもしれない。

ある日の、運動会の練習時だった。その時間は学年の合同練習で入場行進の練習をしていた。
1年生の子供たちはコーナーを4列で曲がるときに、どうしても内側と外側の、いわゆる内輪差のところで列が揃わないことに四苦八苦していた。何度も練習した後、クラスごとにチャレンジすることになった。
ぼくの担当するクラスともう一つのクラスはうまくいき、それぞれの担任の安堵する様子が窺い知れた。
その中、ぼくが注目する若手教員のクラスの番になった。
コーナーの曲がり角で、一部児童の行進にずれが見られた。
その瞬間だった。20代の若手担任教員は、癇癪玉を踏み潰したかのように、地団駄を踏みながら叫んだ。

「どうしてできないんだ!」

ぼくが教師になりたいと思ったのは、その瞬間だったような気がする。
その時の若手教師の癇癪は、当時のぼくにとっては美しかった。


自分の子供でもないのに、なぜあんなに腹を立てているのだろう。
たかが行進の練習で、こんなに熱くなるのはなぜだろう。

いつもクールで爽やかな若手教師が、自分のクラスの子供の姿に不甲斐なさを感じ、叫ぶ姿は、いうまでもなく子供たちへの期待であり、愛情だった。
今思うと、これが教師としてのもっとも大切な資質なのではないか。そしてぼくは、その若手教師に「憧れ」、教師になることを夢見出した自分自身に気がついたのだった。

次回に続く

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「憧れ」教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.2” に対して2件のコメントがあります。

  1. 樋口浩章 より:

    松井先生
    お世話になっております。ブログは継続が大変だと思われますが、先生のブログは教育に特化しているので良いと思います。私も榎戸先生がフジスープを始めたときに何人か共同でやり始めましたが、最近はみなカンボジアにいないこともあり、書かない日のほうが多くなってしまいました。猫が書いている前提なので、とてもまじめなものとは言えませんが、2012年ごろから書いているのでその当時のプノンペンの雰囲気がわかるかもしれません。松井先生に励まされ時々書いてみます。私のはとても柔らかいものですみませんが。

    1. noriomatsui より:

      カンボジア・メコン大学 樋口先生
      コメントをいただき、ありがとうございます。
      「あたいは猫である」
      面白いですね!
      ブログを書き始めたところなので、構成等も参考になります。
      カンボジアの様子がわかり、とても嬉しいです。

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