「いじめの3つの潮流」 教師はなぜ、憧れの職業ではなくなったのか No.53

前回「No.52 いじめとトラブルの混在」では、

「いじめの芽を把握していながら、早期に対策しなかった教師」という構図について、あるいは

「いじめ」なのか、「トラブル」なのかわからない時があるという実態の中で、教師がそこに介在することの困難について考察し、

「方法と感覚の乖離」が教師にいじめ発見や対応の不成功に結びついている、という考えを示した。

では、いじめなのかトラブルなのか、教師の介在はどの程度効果があるのか、先行研究を参考にしながら論考してみたい。

まずその前に、日本のいじめはどのような潮流を辿ってきたのか整理しておきたい。
そのことが、ただ感覚的にいじめを捉えるだけの感情論を避けることができる。

いじめの潮流

森田(2010)によると、日本におけるいじめ問題は、これまでに3つの波を経てきたという。

「第1の潮流」は1980年代半ばであり、それは「いじめ問題の発見」であった。

ちょうどこの頃は、受験戦争の激化による「落ちこぼれ」や校内暴力が社会問題として顕在化した時代だ。

これらが日本における「いじめ問題」を誘発したのか分からないが、日本ではそのように解釈する風潮があった。
その一つの要因として、日本のいじめ研究が海外にレビューされないこと、そして研究そのものが「鎖国状態」だったため、「海外ではいじめはほとんどない」という誤った認識が生まれ、いじめの要因を当時の社会状況や日本特有の風土に求めるほかなかった、と森田(2010)は指摘している。

また、「第1の潮流」の特性として、この時代に「いじめ」の概念が確立したといえる、ということだ。
それまでは「からかい」「嫌がらせ」「仲間はずれ」などの多様で多岐にわたる言葉で表現されていたものが、「いじめ」という用語に総称された。

そのような用語の総称としての「いじめ」は、同時に「悪いこと」であるという認識の確立も生み出した。
したがって、いじめ問題は1980年代以降に始まったものと捉える潮流が大勢を占めるといことを、ここで確認しておこう。

「第2の潮流」は1994年をきっかけに訪れた。

文科省の調査によると、いじめの発生件数は1980年代の「第1の潮流」以降、1990年初めあたりまでは、沈静化したかのように激減している。
このあたりの推移については、No.50で引用している「令和2年度 児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果について(p26)」を同時に見ながら進めていきたい。

No.50の表をみると、1985年をピークにいじめ発生件数は減少し、その沈静化現象は1993年まで続く。
しかし、表では1994年に突然、それまでの流れから変化が起きていることがわかる。
これが「第2の潮流」だ。

1994年、世間を震撼させるいじめ事件が発生した。

愛知県の中学生(当時中学校2年性)がいじめを苦に自死した事件だ。
この事件では、自死した少年がとても詳細にいじめの内容を記した遺書を遺していたことだった(しかも加害者を責めないでほしい、悪いのは自分だ、と記した)。

ぼくはこのいじめ事件を取り上げて、少年が遺した遺書を教材にし、小学校6年性に授業をした。
この実践「Smile School 〜いじめと命 未来に向けて考えよう」については拙著「どうすれば子どもたちのいのちは守れるのか ー事件・災害の教訓に学ぶ学校安全と安全教育」ミネルバ書房)にも詳しいが、今後このブログの中でも紹介したいと思う。

この1994年のいじめ自死事件を受け、当時の文部省が「緊急アピール」を発表した。
そこでは、

「1.いじめがあるのではないかとの問題意識を持って、全ての学校において、直ちに学校を挙げて総点検を行うとともに、実情を把握し、適切な対応をとること」

と提言された。
このことによって、先のグラフ(No.50引用)の1994年に突然、発生件数が増加したのだった。

言い換えると、それまで発見できていなかった、あるいはいじめだと認識していなかった事案をいじめと認識し、「発見」するようになったと言えるだろう。

ひとりの少年の犠牲から生まれた教訓が、世の中を動かしたのだ。

「第3の潮流」は2006年に訪れている。

それはの.50引用のグラフからも明らかだ。
このグラフの大きな変化は、いじめに関する各学校への実態調査について、その文言を「発生件数」から「認知件数」に改めたことが大きな要因の一つであることは間違いない。

この、調査における「いじめの捉え方」が「発生件数」(認知件数)に少なからず影響を与えてきた。

「第1の潮流」期である1980年代半ばから1993年において、「いじめの捉え方」には

「・・・であって、学校としてその事実(関係児童生徒、いじめの内容等)を確認しているもの

という注がついていた。

したがって、この時期は学校がいじめではないと言えば、それはいじめとは認知されなかったということになる。

この文言は、「第2の潮流」期(1994年〜2005年)には姿を消している。

そしていじめの捉え方についても、

「相手が深刻な苦痛を感じているもの」(第1潮流期・第2潮流期)から、

「精神的な苦痛を感じているもの」(第3潮流期)に改められた。

これらのことによって、学校はいじめを広く認知する必要が生じ、認知件数が大きく増加したものと考えられる。

何も変わっていない

以上が、いじめの潮流を大きく3段階に分けた見解となる。
その後、2011年には大津中2いじめ自死事件が発生し、いじめ対策推進法が成立するとともに、「いじめと自死の因果関係」について認められたことが新たな潮流を生んでいる。

しかし現在においても「いじめと自死」の因果関係を認めるか否かについては長い時間がかかったり、あるいは学校や行政による「隠蔽」など、いじめ対応における問題が頻繁に発生し、遺族を苦しめている現状がある。

そしてここまで、3つの潮流に分けて日本のいじめを分類してきた。
その潮流ごとに「何か」が変わり、あるいは変えてきた足跡は見えたのは確かだ。
しかし同時に、「何も変わっていない」ことに気づく。

いじめの持つ本質、その発生、対応、それらは何も変わっていない。
そしてまるで嘲笑うかのように、いじめの方法、巧妙さは進化しているようだ。
どうすればいいのか、どう考えればいいのか。

そして学校や教師は、いじめをどのように発見、あるいは「認知」するのか。
また、発見したときに、どのように対応するのか。

引き続き考えていこう。





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