災害時における教師たちのノブレス・オブリージュ ~そこにある「使命感」と「多忙感」~ 5 学校が突然、避難所になったとき
前回の投稿(7月28日 災害時における教師たちのノブレス・オブリージュ ~そこにある「使命感」と「多忙感」~ 4 「災害救援者」としての教師の役割)では、教師は災害時における職業的災害救援者ではないが、それでも災害時には救援者となることが期待され、教師としての「使命感」をもって救援者となっていることについて記した。
今回は、熊本地震で主体的に避難所を運営した一人の教師をモデルに、教師の災害時における職能について述べたい。
地震発生時の避難状況
熊本地震は、震度7という規模の地震が短時間の間に2度発生したという点で、過去に類を見ない規模の地震だったと言える。
前震(4月14日21:26発生)を当初は本震であると認識されたため、本震(4月16日1:25発生)発生時にはすでに避難を完了している住民も多かった。
だが一方では、前震後に帰宅し、本震で犠牲になった人々も多数いた。
ぼくら(松井と岡村先生)が初めて熊本県を訪れたのは、2016年9月のことであり、震災からおよそ5カ月が過ぎていたころだった。
当時はまだ、倒壊家屋等の解体、撤去が法的に整備されておらず、多くが手つかずの状態であった。
熊本空港から益城町に向かって車を走らせながら、幾度となく車を停め、その倒壊家屋の凄惨さに言葉を失って見入った。
多くは1階部分が倒壊し、2階部分が陥落している様子だった。
前震で損壊していた1階部分が本震で陥落した家屋も多く、帰宅して犠牲に遭った人も多かったのである。
そこでは、避難後の帰宅判断についての教訓を残したと言えるだろう。
そして本震後、人々は帰宅叶わず避難生活を送ることを余儀なくされた。
内閣府の防災情報(http://www.bousai.go.jp/updates/h280414jishin/h28kumamoto/)によると、本震翌日の4月17日時点で、熊本県全体の避難所数は855カ所であり、そこに18万3千人以上の人が避難した。
避難所の規模にもよるが、同規模とみなして単純に計算すると、1カ所に200人以上が避難していた計算となる。
本稿のモデルである教師(当時校長の井手文雄先生、本シリーズ第1回を参照)の小学校がある益城町においては、12カ所の避難所に7910人が避難し、1カ所あたりじつに659人が避難していた計算となる。
突然、避難所となった学校の実態
井手先生が校長として勤務していた学校での地震発生時の状況について整理しておきたい。
まず地震発生時の状況について。
4月14日21時26分(前震発生)時点で、学校で執務中の教職員が8名ほどいた。
ぼくらの後のインタビューで明らかになったことだが、このとき、PTAの役員数名と、行事に向けた会議を行っていたそうだ。
PTAの保護者らは、地震収束後、ただちに自宅に帰り安否確認を行ったが、残った教師はそのまま避難者誘導に直面した。
井手先生は地震発生直後の避難所運営について、その後18日までは、行政の避難所支援が追いついていない様子であり、
「リーダーなしの避難所だった」
「施設管理も行き届かず、教職員はその状況を見るに見かねて援助した」
と述べている(2017年2月14日に実施した筆者らによるインタビューでの発言)。
井手先生の小学校における避難所運営で、無視できない重要な要素がある。
この小学校の、避難所としての役割を大きく左右したのは、小学校に隣接する大型産業展示場だ。
4月16日未明に発生した本震の後、同日の午前中には、すでに当施設の駐車場におよそ2000台以上の車と、数千人の避難者が詰めかけていた。
そして、当小学校にはおよそ800名の校内避難者と、運動場には約200台の車が避難していた。
以後、小学校の避難者と産業施設の避難者はトイレを求めて小学校を行き来し、その混乱ぶりは想像に難くない。
(次回へと続く)